まあ、そりゃ33万人もの人が透析を受けている訳ですからね。

その人数分の透析への道があり、一概に言い切れるものでもないのは分かります。

僕自身も38歳で透析開始から10年、ずっと透析というものに希望を見いだせないでいました。



もしも「人工透析」という手段がなければ死んでいたという不変の事実


しかし、もしもこのような安い費用で透析が受けられる国に住んでいなければ、そして人工透析という手段が無ければ、僕は39歳になれないまま38歳で死んでいたでしょう。

人工透析を受け始めたのが2006年の7月18日です。

僕の誕生日は12月ですので、そこまで生きられたかどうか。

透析導入時点ですでにクレアチニン値は12となっていました。

体が水膨れのような状態になり、靴も履けなくなっていましたね(-_-;)

吐き気とめまい、そして貧血によって平衡感覚がなくなっていました。

食べ物を受け付けないのに、体重は増えていくのですよ(-_-;)

当時、すでに尿量が1日500mlくらいになっていたでしょうか。

人生初の血液透析はどういうものだったか? と言いますと、
*穿刺がちょっと痛かったような覚えがあります。
*透析開始直後にベテラン看護師さんが、
「テレビ見ますか?」とテレビを付けてくれました。
*天井の模様を眺めながらいつの間にかうつらうつらしてました。
*先生の、
「時間1000cc除水で行けるところまで行きましょう。」という声が聞こえました。
*3時間経過前後で激しい足のつりで透析終了となりました。
*病室に帰って冷えた昼ご飯を食べながら、
「透析ってこんな程度か、これならやって行けるかも」と少し余裕が出ました。
*体が凄く軽くなり、水膨れがかなり解消していた感じでした。

導入期は2日続けて透析をし、おおよそ体に6キロほどの水が溜まっていたことが分かりました。

3回目の透析で、初めて4時間の透析を行いました。

この時、
「こんな事を死ぬまでやっていくのか。嫌だな・・・(-_-;)」という気持ちになって以来10年間、ずっと精神的に堪えてしまいましたね。

透析5年目頃には死ぬ決意もしました。

透析バンザイ!!! トシヒーロー物語


実際、透析1年目に仕事探しをしていたのですが、当時の病院には夜間透析がなかったので、就職活動は嫌な思いばかりとなってしまいましたね。

まあ、まだ田舎部ではそこまで障害者雇用も発展してなかったというのもあったのでしょうか。

通常の就職は出来ず、当時は高松市のアパートで1人暮らしをしてましたが、家賃が払えないので東かがわ市の実家に戻り、両親の年金で細々と暮らしていましたね。

多少、自暴自棄的な精神状態になってました。

親が死んでしまったら、生活出来ないので「首吊り」だな、と思っていた記憶があります。

透析7年目には、地元病院に転院した事がきっかけで様々な検査を1からやり直した際に、心臓が20%しか機能してない事が発覚し、香川医大に2週間の検査入院をしました。

その心臓カテーテル造影剤検査で、心臓の冠動脈の狭窄と、右側の腎臓に腎臓がんが見つかりました。

2013年の後半はその治療で入退院を繰り返しました。

心臓の冠動脈には15ミリと5ミリのステントが入り、右腎は全摘出となりましたね。

透析導入期から、透析の先輩や同じタイミングで透析導入した透析仲間たちが次々に亡くなられていくところを見てましたし、僕も心臓が悪くなったり、がんになったりしましたので、死ぬのも時間の問題と思い込んでいました。

まあ、透析10年から15年くらいが僕の死に時なのかな? そんな風に受け止めていました。

しかし、心臓にステントを入れ、アーチストなどの薬が処方されると、悪かった体調も少し良くなり、2度目の転院で透析が良くなると、体調も良くなっていきました。

透析10年経過・・・。

あら(-_-;)
なんか、体調ええやん(~_~;)

うな(-_-;)
死にそうにないんですけど~~~~~。

ちょっと! 死ねんかったら、何のためにここまでヘタレてたんや(-_-;)
めっちゃ無意味な10年を過ごしてしまった!

SSS38



透析が「絶望」から「希望」へと変わった瞬間


ネット世界に入り、世間では若くして透析を受けながら、社会で活躍する大勢の透析仲間がいる事に気付きました。

そういう仲間たちを追いかけて、東京や大阪にも何度も足を運びました。

透析20年、30年、40年受けているのに、全然へこたれたところを見せずに頑張っている人たちに出会えたのですな(*'▽')

えっ、どういう透析を受けているんですか?

えっ?
在宅血液透析で週6回も透析???

えっ、週に5回もオーバーナイト8時間透析をやってる???

オンラインHDFって何ですか???

もうね、新たな言葉が次々に出てくるんですよね。

そこで主治医に透析量の話を持ち掛けたら、思いがけず僕も週3回の6時間透析を受けられる事になりました(^◇^)

ど~~~(>_<)
めっちゃ、体調良くなるやん(*'▽')

なんや~、はよ知ってたら良かった(-_-;)



生きれると分かれば何でもできる気がする


今月、透析丸12年となる訳ですが、実は先日、彼女と婚約しました(*'▽')

9月末の入籍、10月からの県外移住と計画が着々と進んでおります。

え、あ、
今年、ついに彼女ができたのですよ(*'▽')

7歳も年下の(^◇^)

なんかね、希望を持って色々やってたら、誰かを好きになる事は起きてきました。

よくよく考えてみると、ここというタイミングで今まで病気ばかりしていた感じがしますね。

そして彼女いない歴12年近くになり、昨年11月の長時間透析研究会という学会に参加した際に、奥さんになってくれる人に出会っていた訳です(*'▽')

「あ、Facebookアカウント持ってる? じゃあ、ウルトラソウルズに入んなよ。来年2月には東京でオフ会もやるからおいでよ。」と話してたのですね(*'▽')

で、2月のオフ会では隣りに座ってくれてました。

後に付き合う事になるとはその時は思ってませんでしたけどね。

何となく気になる存在の人ではありました。

後に付き合い始めるのですが、付き合う事となったその日に、なんかプロポーズになるような言葉を僕が発していたらしいですな(*'▽')

いや、まあ、彼女より長生きして最後を看取る約束をしました。

彼女にとってはそれをプロポーズのような感じに受け止めてたそうです。

なので、後にもう1回、
「僕と結婚して下さい。」と、正式にプロポーズしたら、
「はい、喜んで。」という言葉が返ってきました。

ん~(-_-;)
お調子者の風来坊なんですけどね。

僕で良いのでしょうか・・・と少々不安にもなります。

が、ふさぎ込んで暮らしていた10年からみると、この2年の僕の気持ちの変わりようは、「生きられる」と分かってから始まったのだと思いますね。



「人工透析」を味方につけるか敵に回すか


結局、腎不全末期という病気をどう考えるかによって全然生き方が変わってしまうのですな。

透析してても、人並みに生きていく事は可能と思って踏ん張るか、それとも病気の波に飲み込まれるか。

生きてんだから、どうせだったら楽しく生きたい!

そう思うようになって自分が変わり始めました。

何かに突き動かされるように、アチコチに遊びに行き、そして生涯の伴侶となる人との出会いもありました。

今後は、他県へ移住し、新たな人生を構築する事になりました。

在宅血液透析移行へ向けてのトレーニングも行えそうな事になってきましたし、そこから透析後初の就職に向けてやって行こうと思います。

在宅透析に移行できるかどうかはまだ分かりませんが、トレーニングしてもらって、就職を決めないとその後の結婚生活に支障をきたしますからね。

人工透析を味方につける生き方を選択すれば、望む事は何でも向こうから降って来る感じがします。

ここからが真の戦いのような気がしますね。

なんかワクワクすっぞ(悟空風に(*'▽'))



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